本文へスキップ

アスレティック・ビルバオ 一度も降格なし|バスク純血主義

David Recalde ダビッド・レカルデ | | 約8分 | バスク地方
サン・マメスの芝に描かれたアスレティック・クラブのエンブレム
アスレティック・クラブ完全ガイド。バスクの誇りサン・マメスを本拠地に、ウィリアムス兄弟を筆頭とするバスク人限定の育成方針を貫きながら、1部リーグから一度も降格したことがない名門クラブの歴史を日本語で徹底解説します。
目次
  1. 1. 創設:英国人労働者が持ち込んだサッカー
  2. 2. 「ロス・レオネス」の由来とエンブレムに込められた意味
  3. 3. バスク・カンテラ方針:欧州で唯一の民族限定主義
  4. 4. バスク・ダービー——レアル・ソシエダとの対決
  5. 5. 一度も降格したことがないクラブ
  6. 6. タイトル歴:スペイン国内3位の実績
  7. 7. 本拠地サン・マメスの歴史
  8. 8. 優勝を祝う「ガバラ」と、ピチチへの敬意「ガンバラーダ」
  9. 9. クラブ賛歌
  10. 10. 歴代の名選手
  11. 11. 2026-27シーズンの現状
  12. 12. まとめ

アスレティック・クラブ完全ガイド|バスクの誇りと一度も降格なしの記録

アスレティック・クラブ(アスレティック・ビルバオ)は、バスク出身または現地育成の選手のみを起用するという、欧州サッカー界でも極めて異例の方針を100年以上にわたって貫いてきた名門クラブです。1928年のリーグ創設以来一度も降格したことがない、レアル・マドリード、FCバルセロナと並ぶ稀有な存在でもあります。

ラ・リーガ全体の解説は「ラ・リーガ完全ガイド」、スペイン代表とニコ・ウィリアムスの活躍は「スペイン代表完全ガイド」もあわせてご覧ください。


創設:英国人労働者が持ち込んだサッカー

ビルバオへのサッカー伝来は、造船所や鉱山企業で働く英国人労働者たちによるものでした。英国人とビスカヤ地方の若者たちによる最初の対戦記録は1893年にさかのぼります。クラブは「英国に存在する各種クラブのモデルに倣って」設立されたとされ、そのことが「Athletic(アスレティック)」という英語由来のクラブ名にも表れています。起源は1898年頃とされていますが、法人としての正式な創設は1901年4月5日、ビルバオのヒムナシオ・サマコイスに集った運動家たちによるものでした。初代会長には、ウエルバ県モゲール出身のルイス・マルケス・マルモレホが就任しています。

アスレティック・クラブ初代会長ルイス・マルケス・マルモレホ
クラブ創設メンバーの一人で、初代会長を務めたルイス・マルケス・マルモレホ。

「ロス・レオネス」の由来とエンブレムに込められた意味

アスレティック・クラブは「ロス・レオネス(獅子たち)」の愛称で親しまれています。その由来は、本拠地サン・マメスの名の由来にもなっている聖マメスの伝説にあります。聖マメスはローマ帝国時代のキリスト教殉教者で、ライオンの前に投げ込まれながらも生き延びたと伝えられており、この逸話にちなんで「サン・マメスの獅子たち」と呼ばれるようになりました。

クラブのエンブレムにも、地域の伝統が色濃く反映されています。ビルバオ市の紋章に由来するサン・アントン橋と教会、そしてビスカヤの名家アロ家の狼をあしらったデザインに、ビスカヤ地方の象徴であるゲルニカの木が組み合わされています。現在の形に近いエンブレムが初めて文書に記録されたのは1922年で、1941年に基本デザインが確立、1972年に現在の形へと整えられました。

アスレティック・クラブのエンブレム
サン・アントン橋とゲルニカの木をあしらった、アスレティック・クラブのエンブレム。

バスク・カンテラ方針:欧州で唯一の民族限定主義

アスレティック・クラブを他のどのクラブとも一線を画す存在にしているのが、バスク出身または現地育成の選手のみを起用するという独自の方針です。

この方針の起源は、1911年にスペインサッカー連盟が「スペイン国籍選手のみの起用」を求めたことに端を発します。アスレティックはこれを機に外国籍選手を起用しない方向へ進み、時を経てこの慣習がバスクのアイデンティティと結びつき、1980年代には「バスク(エウスカル・エリア)出身、またはバスクのクラブの下部組織で育成された選手」という、より広い現在の基準に発展しました。

重要なのは、この方針に法的な拘束力はなく、あくまでクラブ会員による民主的な合意として維持され続けているという点です。その徹底ぶりを示す数字として、クラブの長い歴史の中でこの基準に当てはまらない選手として在籍したのは、わずか6人(ガネア、ビウルン、リサラス、アモレビエタ、イトゥリアガ、ラポルテ)のみとされ、いずれも家族的・育成的な形でバスクとつながりを持つ例外的なケースでした。

この方針を体現する現在の象徴的存在が、ガーナ出身の両親のもとバスク州で生まれ育ったニコ・ウィリアムスイニャキ・ウィリアムスの兄弟です。ニコはビルバオ生まれでレサマの下部組織育ち、イニャキもバスク州育ち——出自に関わらずクラブの起用基準を満たしています。興味深いことに、弟のニコはスペイン代表を、兄のイニャキはガーナ代表を選択しており、それぞれ異なる代表でプレーしています。


バスク・ダービー——レアル・ソシエダとの対決

アスレティック・クラブにとって最も特別な対戦の一つが、同じバスク州を本拠地とするレアル・ソシエダとの「バスク・ダービー(デルビ・バスコ)」です。両クラブはともにバスク・カンテラ方針を貫いており、単なる地域対抗戦を超えて、バスクのアイデンティティそのものを象徴する一戦として位置づけられています。


一度も降格したことがないクラブ

アスレティック・クラブは、レアル・マドリード、FCバルセロナと並び、1928年のリーグ創設以来すべてのシーズンを1部リーグで戦い続けている、わずか3クラブのうちの一つです。2006-07シーズンには最終節でレバンテに2-0で勝利し、かろうじて降格圏を脱するという際どい場面もありました。


タイトル歴:スペイン国内3位の実績

  • リーグ優勝(8回):1929-30、1930-31、1933-34、1935-36、1942-43、1955-56、1982-83、1983-84
  • コパ・デル・レイ(24回):1903年から1984年にかけて数多くの優勝を重ね、直近では2024年、決勝でFCバルセロナを下して40年ぶりに国内カップ戦のタイトルを手にしました。
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ(3回):1984、2015、2021

これらの実績により、アスレティック・クラブはレアル・マドリード、FCバルセロナに次ぐ、スペイン国内タイトル獲得数第3位のクラブとなっています。


本拠地サン・マメスの歴史

現在の本拠地サン・マメスは、実は2代目です。初代サン・マメスは建築家マヌエル・マリア・スミスの設計により1913年8月21日に開場。当初の収容人数は約3,000人でしたが、1920年代末には9,500人まで拡張されました。1982年のスペインワールドカップ開催に向けては大規模な改修が行われ、収容人数は46,000人まで拡大しています。

1913年開場当時の初代サン・マメス
1913年に開場した、初代サン・マメス。

初代スタジアムから数十メートル離れた場所に、セサル・アスカラテの設計による新サン・マメスが2013年9月16日に開場。収容人数は約53,000人で、「ラ・カテドラル(大聖堂)」の愛称は新スタジアムにも受け継がれています。

旧スタジアムの隣で建設が進む新サン・マメス
旧スタジアムのすぐ隣で進められた、新サン・マメスの建設工事。
現在のエスタディオ・サン・マメスの空撮
現在の本拠地、エスタディオ・サン・マメス。

優勝を祝う「ガバラ」と、ピチチへの敬意「ガンバラーダ」

アスレティック・クラブがタイトルを獲得すると、選手たちはビルバオを流れるネルビオン川の河口を、伝統的な平底船「ガバラ」に乗って進み、川岸に集まったファンとともに優勝を祝います。1983年・1984年のリーグ制覇の際にも行われた、クラブに深く根付いた伝統です。

優勝を祝う「ガバラ」の船団、ネルビオン川
優勝を祝う船団「ガバラ」で埋め尽くされたネルビオン川。

もう一つのユニークな伝統が「ガンバラーダ」です。1927年1月以来、サン・マメスを初めて訪れる対戦相手クラブの主将が、スタジアム内に置かれたピチチの胸像に花を供えるという儀礼を行っています。ピチチその人については、後述の「歴代の名選手」で詳しく紹介します。

ピチチの胸像に花を供える対戦相手クラブの選手
「ガンバラーダ」の儀礼で、ピチチの胸像に花を供える対戦相手の選手。

クラブ賛歌

アスレティック・クラブの公式賛歌は1982年に制定されました。作曲はカルメロ・ベルナオラ、作詞はフアン・アントニオ・スビカライが手がけ、バスクの伝統楽器であるチストゥ(笛)とタンボリル(太鼓)が用いられています。歌詞はビスカヤ地方のバスク語(エウスケラ)方言で書かれ、エウスカル・エリア(バスクの地)やゲルニカの木への言及が盛り込まれています。初めて披露されたのは1983年3月30日、サン・マメスで行われたコパ・デル・レイ準々決勝、FCバルセロナ戦でのことでした。

冒頭と、樫の木を歌った一節を紹介します。

Athletic, Athletic, Athletic eup! Athletic, gorri ta zuria danontzat zara zu geuria Erritik sortu ziñalako maite zaitu erriak

Athletic, Athletic, gogoaren Indarra. Aritz zarraren enborrak loratu dau orbel barria.

アスレティック、アスレティック、アスレティック、エウプ! アスレティック、赤と白よ みんなにとってお前は誇り高き私たちのもの 民衆から生まれたからこそ 民衆はお前を愛する

アスレティック、アスレティック 魂の力よ 老いた樫の木の幹が 新しい若葉を咲かせた

歌詞に登場する「老いた樫の木」は、エンブレムにも描かれるゲルニカの木——バスクの自由と伝統を象徴する存在——を想起させる一節です。

サン・マメスで賛歌を歌うアスレティック・クラブのファンたち
サン・マメスのスタンドで賛歌を歌うファンたち。

歴代の名選手

「ピチチ」——リーグ得点王賞にその名を残す男

アスレティック・クラブの歴史に最も深く名を刻んだ人物の一人がラファエル・モレノ・アランサディ、通称「ピチチ」です。1892年5月23日、ビルバオの旧市街で生まれました(母は作家ミゲル・デ・ウナムーノの遠縁、父は一時ビルバオ市長を務めた人物です)。1913年3月17日にアスレティックでデビューし、インサイドフォワードとして12年間にわたり活躍。現役時代にコパ・デル・レイ4回、地方選手権5回のタイトル獲得に貢献しました。

「ピチチ」というあだ名は、少年時代に年上の子どもたちに交じって遊びたがっていた様子と、その小柄で華奢な体格にちなんで付けられたもので、実は得点力とは無関係な由来です。1921年に現役を退いた後、1922年3月1日、29歳の若さでチフスのため急逝しました。

彼の名は、1952-53シーズンからスペインのスポーツ紙マルカが創設した「ピチチ賞(リーグ得点王賞)」として現在まで受け継がれています。栄えある初代受賞者は、同じアスレティックの偉大な点取り屋テルモ・サラでした。

現役時代のピチチ、ラファエル・モレノ・アランサディ
アスレティック時代のピチチ、ラファエル・モレノ・アランサディ。
サン・マメス内に設置されたピチチの胸像
サン・マメス内に設置されているピチチの胸像。

伝説的な存在がテルモ・サラ(活躍期間1940〜1955年)です。リーグ通算251得点という記録的な数字を残し、ピチチ賞を6回獲得——この記録は長らく破られず、後にリオネル・メッシがようやくこれに並ぶ・上回るまで史上最多を誇っていました。

シュートを放つテルモ・サラ
数々の得点記録を打ち立てたテルモ・サラ。

1930年代の黄金時代を支えたのがゴロスティサ(活躍期間1929〜1940年)です。通算200得点はクラブ歴代3位を誇り、リーグ3回・コパ・デル・レイ4回の優勝に貢献しました。

守護神として知られるホセ・アンヘル・イリバルは1960〜70年代のクラブを支え、1970年にはサモラ賞を受賞しています。

ゴールを守るホセ・アンヘル・イリバル
1960〜70年代のクラブを支えた守護神、ホセ・アンヘル・イリバル。
サン・マメス前で除幕されたイリバルの像
サン・マメス前に建てられたイリバルの像の除幕式。

監督としては、1980年代黄金期を率いたハビエル・クレメンテ、後に欧州の舞台でチームを躍進させたマルセロ・ビエルサらが名を残しています。

1990年代を象徴する存在がフレン・ゲレーロ(活躍期間1992〜2006年)です。430試合に出場して116得点を記録し、リーグ準優勝に終わった1997-98シーズンには主将としてチームを牽引しました。

ゴールを喜ぶフレン・ゲレーロ
1990年代のクラブを象徴する存在だったフレン・ゲレーロ。

近年の象徴的存在がアリツ・アドゥリス(主に2012〜2020年在籍)です。407試合で172得点を記録し、2015年のスーペルコパ・デ・エスパーニャではFCバルセロナ相手にハットトリックを達成。2016年のヨーロッパリーグでは1試合5得点という離れ業も演じています。

ゴールを喜ぶアリツ・アドゥリス
近年のクラブを象徴する存在だったアリツ・アドゥリス。

2024年のコパ・デル・レイ制覇では、クラブ歴代2位となる通算573試合出場を誇るオスカル・デ・マルコスが主将としてチームを率い、40年ぶりのタイトルを掴み取りました。

バスク・カンテラ方針の象徴として先述したイニャキ・ウィリアムスニコ・ウィリアムスの兄弟は、クラブでの実績自体も傑出しています。兄イニャキは2014年12月6日、コルドバ戦(サン・マメス)で1部デビューを果たし、2016年4月から2021年にかけてラ・リーガ史上最多となる251試合連続出場という記録を樹立(この間50得点31アシスト)、その堅牢さから「鉄人」とも称されています。弟ニコは10歳でクラブの下部組織レサマに加入し、下部組織や2軍(ビルバオ・アスレティック)を経て、2021年4月28日、18歳9ヶ月でトップチームデビュー。翌2021-22シーズンに公式戦40試合に出場して本格的にブレイクし、現在では兄とともにクラブの攻撃陣を牽引する存在となっています。

ゴールを喜ぶイニャキ・ウィリアムスとニコ・ウィリアムス
ともにクラブの攻撃陣を牽引するウィリアムス兄弟。

2026-27シーズンの現状

長年指揮を執ったエルネスト・バルベルデが2025-26シーズン限りで退任を発表し、後任として2026年5月、ドイツ人指揮官エディン・テルジッチ(元ボルシア・ドルトムント監督)が就任、2028年6月までの契約を結びました。バルベルデ以来の外国人監督で、マルセロ・ビエルサ以来となります。会長は2026年4月、無投票で再選されたジョン・ウリアルテが務めています。

なお、前述のバスク・カンテラ方針の性質上、日本人選手が同クラブの1軍に在籍した記録はなく、今後も在籍する可能性は構造的に極めて低いと考えられます。


まとめ

アスレティック・クラブは、バスク出身選手限定という欧州でも唯一無二の方針を貫きながら、一度も降格することなくスペイン国内3位のタイトル数を積み重ねてきた、稀有な名門クラブです。ウィリアムス兄弟の活躍は、この伝統が現代でも輝き続けていることの証です。

出典

よくある質問

アスレティック・クラブはいつ創設されましたか?
起源は1898年とされていますが、法人としての正式な創設は1901年4月5日です。ビルバオに住んでいた英国人労働者たちが持ち込んだサッカーが起源で、クラブ名「Athletic」も英国の名称にならったものです。
アスレティック・クラブの「バスク・カンテラ方針」とはどんな制度ですか?
バスク(エウスカル・エリア)出身、またはバスクのクラブの下部組織で育成された選手のみを起用するという、クラブが独自に守り続けている方針です。法的な拘束力はなく、会員による民主的な意思決定によって支えられている伝統で、欧州トップレベルのクラブの中でも極めて異例の存在です。クラブ史上、この基準に当てはまらない選手でプレーしたのはわずか6人とされています。
アスレティック・クラブは1部リーグから降格したことがありますか?
一度もありません。レアル・マドリード、FCバルセロナと並び、1928年のリーグ創設以来すべてのシーズンを1部で戦い続けている3クラブのうちの一つです。2006-07シーズンには最終節の逆転劇でかろうじて降格を免れました。
ニコ・ウィリアムスとイニャキ・ウィリアムスはどんな選手ですか?
ガーナ出身の両親のもとバスク州で生まれ育った兄弟です。バスク・カンテラ方針の対象となる「バスクで育った選手」として、出自に関わらずクラブに所属しています。興味深いことに、弟のニコはスペイン代表、兄のイニャキはガーナ代表を選択しており、それぞれ異なる代表チームでプレーしています。
アスレティック・クラブのタイトル数は?
リーグ8回(最後は1983-84シーズン)、コパ・デル・レイ24回(最新は2024年、FCバルセロナ相手に決勝で勝利)を誇り、レアル・マドリード、FCバルセロナに次ぐスペイン国内3位のタイトル獲得数を誇る名門です。
アスレティック・クラブのホームスタジアムはどこですか?
「ラ・カテドラル(大聖堂)」の愛称で知られるサン・マメスです。現スタジアムは2013年9月16日に開場しました。
アスレティック・クラブはなぜ「ロス・レオネス」と呼ばれるのですか?
本拠地サン・マメスの名の由来である聖マメスの伝説に由来します。聖マメスはローマ帝国時代のキリスト教殉教者で、ライオンの前に投げ込まれながらも生き延びたと伝えられており、この逸話から「サン・マメスの獅子たち」と呼ばれるようになりました。
「バスク・ダービー」とはどんな対戦ですか?
同じバスク州を本拠地とし、ともにバスク・カンテラ方針を貫くレアル・ソシエダとの対戦を指します。単なる地域対抗戦を超えて、バスクのアイデンティティそのものを象徴する一戦とされています。
アスレティック・クラブの優勝祝いや対戦相手への儀礼にはどんな伝統がありますか?
優勝時には、伝統的な平底船「ガバラ」でビルバオのネルビオン川河口を進み、ファンとともに祝う「ガバラ」の伝統があります。また、サン・マメスを初めて訪れる対戦相手が、伝説的選手ピチチの胸像に花を供える「ガンバラーダ」という儀礼も知られています。
「ピチチ」とは誰で、なぜ得点王賞の名前になったのですか?
本名ラファエル・モレノ・アランサディ、1892年ビルバオ生まれのアスレティックのインサイドフォワードです。1913年にデビューし、12年間の現役生活でコパ・デル・レイ4回の優勝に貢献しましたが、1922年に29歳で急逝しました。「ピチチ」は少年時代の体格にちなんだあだ名で、得点力とは無関係です。1952-53シーズンからスペイン紙マルカが彼の名を冠した「ピチチ賞」をリーグ得点王に授与しており、初代受賞者は同じアスレティックのテルモ・サラでした。

免責事項 本記事は執筆時点で入手できる最善の情報をもとに 作成しています。ただし、料金・営業時間・入場条件・ 法規制などは予告なく変更される場合があります。 重要な判断をされる際は、必ず公式サイトや 関係機関で最新情報をご確認ください。 スペイン倶楽部は記事内容の正確性を保証するものではなく、 本記事の情報を参考にした結果について いかなる法的責任も負いません。

こちらの記事もおすすめ

同じテーマのおすすめ記事です。

この記事は役に立ちましたか?

ブックマークに追加すると、次回もすぐに見つけられます。LINEでも最新記事をお届けしています。

LINEで最新情報をゲット!

公式LINEを友達追加すると、イベント情報・お役立ちコンテンツをいち早くお届けします。

友達追加する(@spainclub)